自立ロボット街へ行く「つくばチャレンジ2009」[4]


今回で一応このコラムは終了となる。今回はこのつくばチャレンジを、"デザイン"という文脈で考えてみたい。

ロボットとデザインという論点は、どうしても形としてのロボットに目がいきがちだ。
現実の世界やマンガやアニメ、映画の中にも、世の中にはかなりの種類のロボットが登場している。十把一絡げにしてしまうのは気が引けるが、鉄腕アトムやガンダムなど枚挙暇なく例を挙げることができる。
また、現実の世界に目を向けると、日本は工業用ロボットの製造大国だ。日々膨大な数の工業用ロボットが製造されている。それもロボットで構成された製造ラインでだ。

しかしここでは、そういうプロダクト的な文脈から少し離れて考えてみたい。

まず、つくばチャレンジの意味を考えてみた。今回のつくばチャレンジで自立ロボットで一通り移動することを成功させた。これはロボットがわれわれの生活するこの社会に、一定の役割を担うものもとして登場することに少し近づいたのだ。

ロボットを分類するための概念として、自分の延長としてのロボット、他人としてのロボットがある。

「自分として」とは、たとえばガンダムのようなロボットである。操縦者の意思に沿って動作する。高度な人工知能が搭載されていたとしても、それは操縦者の意図を汲み取り、アシストするためのものだ。

対して、他人のロボットの代表格は鉄腕アトムだ。ユーザーの指示を逐次反映し行動するのではなく、目的に対して自立的に行動を計画し、遂行する。命令したら放っておくことができる。それが後者なのだ。そしてそれが、つくばチャレンジにおけるロボットのゴールなのだ。

このようなロボットが社会の中で行動できるようになるためには何が必要なのだろうかと考えると、実はそこにはいくつものレイヤーに分かれ、かつ入り組んだデザインが隠れている。

たとえば、法律がある。当たり前のことだが、現在の道路交通法は自立移動ロボットを想定していない。ではロボットは右側を通行するべきなのだろうか? 人にもロボットにもどういうルールが安全なのだろうか?
このルールをうまく作るということは、人とロボットの関係をデザインすることなのだ。

うまくデザインできれば、相互に快適なものになる(ロボットに感情があるわけではないのでこの言葉はあくまで比喩的な表現だ)。
しかし、もし失敗すれば、あちこちで問題が発生するだろう。

また、ロボットが目的地に到達して何かを行うということを考えると、ロボットはどにようにして目的地に到達したことを知るのだろうか? 

2次元バーコードのようなものをどこかに貼るというのも、一つの方法ではある。
では街中に2次元バーコードを貼りまくれば良いのだろうか? それとも、無線ビーコンのようなものを仕込むのだろうか? また、RFIDを地面に埋め込むという方法もある。
しかし、いずれも人にとっての視認性や、電波の相互干渉、工事などなど。さまざまな問題や困難を発生させる。それらがすべて解消されたとしても無際限にそれらを社会に埋め込むべきではない。そこには、バランスが求められるだろう。これはロボットにとっての情報デザインなのだ。


おわりにかえて:

ロボットが社会の中に徐々に入り込みつつある今日の社会は、ちょうどコンピュータがパーソナルコンピュータとして社会の一部に入りはじめた頃に似ている。
何ができるのかもまだ未知数で、技術が先行し、技術者ではない人にとっての、機能としてのやさしさをまだ獲得しているとは言い難い。しかし、AppleがGUIを実用的に利用し、使い勝手のいいコンピュータを社会に提供したのと同じように、やがてロボットもそうなっていくだろう。技術の歴史はクロマチックに進むのだ。そういう視点でロボットとロボットの科学技術を見つめると、デザインの滑り込む余地は無限に広がっているのだ。

【オススメ書籍】
ロボットと社会はいかにつきあうべきかについて考えさせる一冊。
『ブルックスの知能ロボット論--なぜMITのロボットは前進し続けるのか?』(ロドニー ブルックス 著/オーム社 刊)

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